日本には電気が開通した時からずっと電柱があり、電気や通信と電柱は切っても切れない関係となっています。その歴史は古いですが、一体いつから始まり、どのような変化をしていったのかということは意外と知られていません。今回は「東京市区改正委員会における電柱建設に関する審議経過[1]」を元にその歴史をひも解いていきます。

はじめに

現代の日本には電柱が林立しており、それらが改善された試しは一度としてありません。通常この原因をコストの問題として、「いかにして低コスト化をするか」というのが議論の中心となっています。実際、当NPOでもコストの問題を解決するために各支部や国土交通省、会員企業様等と密に連携を取り合って日々議論を交わしています。

確かにコストの問題は重大で、資本主義の原則として安いものを建てるのは常識となっていますが、見方を変えると「経済的理由を盾に電柱を建て続けている」という風に見ることもできます。他の欧米諸国では当たり前に電線を地中化しているのにもかかわらず先進国の中でただ一国のみ電柱を建て続けているのもおかしな話です。

またこれまで何度も取り扱ってきましたが、日本で発生する災害と電柱は非常に相性が悪いことが知られています。このあたりのことを書いた代表的な記事は以下に挙げますが、そういうことが明らかとなっていても電柱は減るどころか増える一方です。

電柱と災害との関係

電柱がいかに事故を起こしやすいか

このような疑問を答えるために電柱が歴史的にどのように扱われてきたのかを明らかにするべきでしょう。
日本の近代化の初期に生まれたばかりの都市計画が、電柱・電線とどのように出会ったのか、またどう対処したのかを探ることにより、無電柱化を推進する上でのヒントとなるのではないでしょうか。

日本の近代化初期、つまり市区改正期に電柱がどのような扱われ方をしていたのかを調べていきます。

市区改正期とは

市区改正期といわれても耳なじみのない言葉で戸惑われる方もいらっしゃるかもしれません。wikipediaによると市区改正とは次のように記されています。

市区改正(しくかいせい)は、明治時代から大正時代に行われた都市計画、都市改造事業である。

江戸時代の都市骨格を引き継いだ維新後の東京市街は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤(インフラ)の整備が遅れていた。また密集した市街地では大火がしばしば起こり、都市の不燃化が課題であった。こうした状況から識者の間に都市改造の必要性が認識されていった。

「市区改正」とは、この改造事業が「東京市区の営業、衛生、防火及び通運等永久の利便を図る」ことを目的とするところから名付けられたもので、今日の「都市計画」にあたる。銀座煉瓦街の建設や官庁集中計画などに比べ、「市区改正」は都市全体を構想したものであり、日本の都市計画史上の画期となる事業であった。

市区改正

市区改正の説明を読んでいただければあることに気が付きます。つまり現在の日本の状況とよく似ています。

小林清親(1881)”両国大火浅草橋 明治十四年一月廿六日出火”

平成30年台風21号の電柱被害

戦後の焼け野原から立ち直った日本は急速に経済発展を遂げ、高度経済成長期には大量の電力消費に対応するために無数の電柱が林立することになりました。しかしながら旧来からの架空線の方式では激甚化する台風に対応できず大規模な停電により市民に大きな負担を強いています。
そこで2016年「無電柱化を推進に関する法律」の制定以降、各地方自治体で「無電柱化推進計画」なる都市計画を次々と発表しています。

これまで用いられてきた架空線を地中線に切り替える過渡期において市区改正期の歴史を知り、その成功や失敗を学ぶことの重要性が分かりました。

明治期の電柱

さて明治期の人々が初めて見る電柱に対してどのような扱いをしていたのかを簡単に紹介しましょう。

1869年(明治2年)に東京横浜間の電信線が竣工し、最初の公衆通信の取り扱いが開始されて以降、文明の利器としてこれを歓迎するものが見られる一方で、初めて見る不気味なものを恐れて電柱や電線を破壊する暴徒もいたようです。また架線工事に伴う風景破壊を問題にした記事も1871年(明治4年)に登場します。

「近頃東京ヨリ大阪ヘ伝信線ヲ懸クル為メ、横浜、小田原ノ間此並木を切リ払ヘリ…大ニ街道ノ風景ヲ失ヘリ…実ニ殺風景ト謂フベシ」

電信に遅れること約20年、東京及び横浜において逓信省(※1)の官営で電話交換業務が正式に開始されたのは1890年(明治23年)12月、同時に両都市間の市外電話通話業務も開始されました。
電話は電信以上に線の乗数の増加と電柱の長大化に悩むことになります。当然技術も未熟なので当時の電柱・電線は想像以上に大げさなものでした。

電灯の普及は電話とほぼ並行していて、東京電灯会社が最初の本格的な電力供給事業を開始したのは1887年(明治20年)11月です。その翌年には神戸電灯会社も電力供給事業を開始しましたが、「外人居留地では架空線によるときは風致を害すると云ふ苦情があったため、余儀なく高価な地中線(エヂソン・チューブ(※2))を敷設して需要に応じた」といいます。後に問題となる電線の地中化が、神戸の居留地では初めから実施されていたのです。

神戸・旧居留地15番館

これについて私たちは学ぶべきところが大いにあると考えられます。明治20年には電線を地中化する技術を持っていたこと、住民からの苦情で”余儀なく”無電柱化を行ったことを考えれば、電線・電柱を見て見ぬふりをすることこそ無電柱化がなかなか進まない大きな要因の一つになっているのではないでしょうか。

電柱問題黎明期

1888年(明治21年)に設置された東京市区改正委員会が初めて電柱問題を取り上げた1890年(明治23年)という年は、官営電信事業はすでに確立し、官営電話事業と民営電灯事業がまさに本格化しようとしていた時期でした。

委員会曰く「東京名所絵には景色の一に書きし電線も、今日のごとく普通電信線、軍用電信線、非常報知線、電話線、電灯線と云ふが如く左右縦横に引張られては景色どころに非ず、東京市民は蜘蛛の巣の中に生活し居るかと怪まるる程なり。殊に街路の真ん中に武骨極まる大木を押し立つるが如きは不用心も亦甚し云々」

この通り新進気鋭の市区改正委員会は景観面における電柱の存在を問題視し、建議を受けた内務大臣(山縣有朋)は警視総監及び東京府知事に宛て、電柱等については「官私を論ぜず其処分に先ち設計に詳細なる図面を添へ東京市区改正委員会へ協議せらるべし」と訓令しました。

ただしこの建議では電柱を全面的に排除しようというのではなく、『電柱等は「欧州都府の例に擬し成べくは地中線と成すを以て恰当なり」と認めるが、「今我都府の実況上より観察すれば必ずしも地中線と成すを要せざる処も少な」くないので「人車馬の通行に妨害なきものは姑く空中線を許し空中線を許す可らざる場所に限り地中線になさしむる…」』ということだったようです。
つまり、人・車・馬の通行のみ強調され美観風致への言及がありません。

ロンドン

またしても現状の日本と似た点が出てきました。巨大な台風の対策案として緊急輸送路の無電柱化が進められていますが、通りの美化はあくまでも災害対策のオマケという論調が目立ちます。一方で、ロンドンなどの電柱が1本もないヨーロッパの大都市について防災対策という意識はほとんどありません。

東京

当然ながら何もかもヨーロッパと同じように街を作る必要はありませんが、通りの美観という点で日本が数歩遅れをとっていることは誰の目に明らかです。このあたりの精神性が明治時代から何ら進歩していないというところが現実です。

問題の棚上げ

さて内務大臣の訓令による警視庁の命令書に対し、議論は紛糾しました。市区改正委員会の「命令書に地中線に関する規定を加える」という主張と、逓信省の認可を盾に変更できないとする警視庁とが真っ向から対立しました。議論はまとまらず、結局命令書調査委員を設けて検討し、再議を行うことを決定します。

しかしこの調査委員の修正案は語句の修正のみに留まり、地中線の規定が盛り込まれることはありませんでした。市区改正員会にしてみれば到底受け入れられません。
「下付すべき命令書には地中線に為すべき条項をも加へたき精神なるも調査委員は然せられず。字句の修正にて止められしは了解しかたきなり」
等の主張が繰り返されました。

 

 

調査委員の東京府書記官銀林綱男はこれに対し、
「他日益往来頻繁となり到底地上線は存じ難き場合に立至らば其際に於て撤去する事を命令せば会社は蓋し地中線に為したしと願出るようになるべし。初めより地中線にせよと云は不可ならん。否為し難きことならん。」
と反論しています。当面は架空線で対応し、将来それが困難になった時にははじめて地中化すればよいと考えたわけです。

支部会議員の田口卯吉委員も
「本員は永遠には地中線にせなばならぬと云ふ考案なるも、未だ其経験も少なく且電灯会社の発達を望む際なれば、先ず今日は地中線の発議はなさざれども若し其必要を感ずる場合に至らば年限を定め改造せしむると云ふ手段を取るの外他なしと信ず…其は他日に譲るとせん」
と銀林氏に同調しています。

列強クラブの仲間入り(横浜開港資料館)

銀林綱男(※3)、田口卯吉(※4)等の主張はもっともで、当時の日本の状況からしても実益のあるところ一銭でも回したいところであり、1890年(明治23年)ごろの人口が4,000万人程度[2]でしたので、「人・車・馬の通行のしやすさ」に巨額に費用をかける意味があまりなかったのではないかと思われます。また反対した当人たちも地中線の有用性はある程度承知しており、将来的には地中線に切り替わっていくのではないかと予想していたのでしょう。
しかしながらその後100年以上電柱・電線が張り巡らされたままと予想している人は誰もいなかったのです。

結局市区改正委員会は委員長代理である長與專齋(※5)が調査委員の修正案を「本会の希望」として回答し、命令書に関する議論は唐突に終わってしまいました。

このようにして東京市区改正委員会における最初の電柱建設案件は、審議の過程で地中線に対する強い執着が見られたものの、結局「当面の措置」としてこれを棚上げすることで決着がつきました。

電柱建設の迅速化

先の命令書調査委員会がほぼそのまま内規を起草する起草委員会に衣替えすることになりました。この委員会から「電線柱建設に関する規定」案が提出されます。内容は以下の通り

第一条 本規定は東京市内の道路及市外の市区改正線路に建設する電線柱に適用するものとす
第二条 電信電話及非常報知線柱の建設は幅員三間(=5.46メートル(1間1.82メートル))以上の道路に限り、三間以上四間未満の道路に於ては片側に限るものとす
第三条 電灯線柱は幅員四間以上の道路の片側に限るものとす
第四条 第二条第三条に規定したる場合に於ては幹事の調査を経て委員長に限り処分するものとす
第五条 第二条第三条の規定内にして建設せしむべからずと認むる場合又は規定外にして建設せしむるも妨なしと認むる場合に於ては委員会の決議を経て処分するものとす

これ以降、例外的に許可又は不許可を下す場合にのみ規定第5条に基づいて委員会が決定を行うものとされました。当然もともとの内務大臣の「官私を論ぜず其処分に先ち設計に詳細なる図面を添へ東京市区改正委員会へ協議せらるべし」という訓令から大きく逸脱しています。
電柱建設案件処理の迅速化のため致し方ないとはいえ、市区改正委員会の理想とは大きくかけ離れた結果となりました。

電柱建設案件からの撤退

この後市区改正委員会が建柱を不許可にしたはずの場所に電柱を建てている事案が幾度も起きました。しかしそれを防ぐ委員会に比べ逓信省は1891年(明治24年)に施工された電信電話建設条例(他人の土地の使用や立ち入りの特権、さらに電信・電話線の建設等に支障となるガス支管・電灯線・電力線等の移設命令権等)により力をさらに増します。

また当時、東京を代表する繁華街であった日本橋―本石町にいたる電話柱建設の問題では「本案は道路の幅員狭きに非ざるも頻る雑踏の場所なるが故に建設せしむべからずと認む」と提示されました。

案に対して委員会は「他に換ゆるの路線なしとするも猶地中線となすの方法あり、逓信省にても所管の電線自己に地中線と成すの准備ありと聞けり、本案電話線の如きも然する方可ならん」、「府下百万人人口の最も輻輳し且雑沓する場所にして障碍ありと認むる上は原案のごとく建設せしめざる方可なり」と不許可説をとりましたが、許可説を唱える人も少なくなかったようです。

特に委員会の通信書記官は「電信用の地中線は四日市辺僅々の場所に試設したるも其費用金三万円(≃現在の価値で6億円程度)を要せり。若し夫れ電話線を地中に設くべしと云はば巨額の資金を投ぜざるべからざるのみならず遂に該事業は成立せざるに至るべし。要するに彼所謂雑沓の地は即電話の必要なる証拠なれば…」とコストの巨大さを挙げ、許可説を強く主張しました。

議論の末、後日の調査を行い結論を延期しましたが、調査期間中、強硬に電柱を建設されてしまい、電柱が建ってしまったという事実を元に許可の方向に結論が流れていきました。

現在では無電柱化されている

とにかく当時の日本で最も「往来頻繁」であったはずの街路においてすら電線地中化の方向へは向かいませんでした。先の地中線を棚上げする際に銀林綱男が言った「他日益往来頻繁となり到底地上線は存し難き場合に立ち至らば…」との期待は、既に空しいものとなっていたのです。

これ以降電柱の建設スピードがますます速くなり、市区改正委員会は電線地中化において逓信省にイニシアティブを完全に掌握されます。結果明治30年代以降委員会は電信・電話・電灯事業に関わる案件から徐々に撤退していきました。そして次に本格的な無電柱化の計画が立てられるのは1986年(昭和61年)とその後100年程度かかるのです。

まとめ

明治期の電柱問題をまとめると次のようになります。

①市区改正委員会が電柱建設問題に取り組み始めた明治23年当時は電話と電灯事業が本格化しようとした時期で、既に街路空間における電柱と電線が問題視されていました。電柱建設問題への委員会の関与の理由としては、運輸交通の阻害と美観風致の阻害が指摘されましたが、運輸交通上の問題が強く言及され、美観のみを問題にした案件が委員会で審議されたケースはありませんでした。

②初期段階では地中線への関心は極めて強かったですが、当面の措置として電線地中化の問題は棚上げされ、都心の最も繁華な街路に於ても地中化案は見送られました。明治30年代以降電話幹線の地中化事業がすすめられましたが、そのイニシアティブは逓信省の手に握られていました。

③委員会の議を経ずして電柱建設等が行われることが再三に及び、法律を後盾にした逓信省が委員会を無視しているという疑念が根強く存在しましたが、これに対し委員会は強い対抗措置をとれませんでした。

④建柱案件処理の迅速化のために、委員会の議を経ない簡略手続きが早くから導入されました。明治30年以降の電話・電灯等の急速な普及とともに案件処理の迅速化が一層求められるようになり、委員会は徐々に電柱建設案件から手を引かざるを得ませんでした。明治末年には完全にこの問題から撤退しました。

逓信省(象)と市区改正委員会(人)

元々市区改正委員会が、街路における電柱建設案件を個別に審議するという形で電柱問題に関与するシステムにはもともと無理があったといわざるを得ません。主務官庁である逓信省との間に有効な調整システムを欠く限り、内務省の一組織としての委員会に、より高次のレベルでの関与を期待できるわけがありません。我が国の街路景観を特徴づけることになった電柱・電線の存在の背景には、集権化した行政の縦割り問題があったと考えられます。

また現在においては電気・通信・行政が複雑に絡みあい、それぞれが無電柱化を阻みます。国が主導となり何とか形を保っているようですが、それでは対応の速度に問題が生じます。当NPOのような無電柱化の専門家集団が的確な助言することで無電柱化を円滑に行うことができるようになると思いますので、是非下のお問い合わせからお気軽に質問いただけたらと思います。

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    ※1:逓信省(ていしんしょう)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%93%E4%BF%A1%E7%9C%81

    ※2:エジソンチューブ
    https://www.sparkmuseum.org/portfolio-item/edison-tube-electrical-cable/

    ※3:銀林綱男
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9E%97%E7%B6%B1%E7%94%B7

    ※4:田口卯吉
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8D%AF%E5%90%89

    ※5:長與專齋
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%88%87%E5%B0%88%E9%BD%8B

    参考文献

    [1]丸茂弘幸(1996)「東京市区改正委員会における電柱建設に関する審議経過」

    [2]国勢調査以前の日本の人口統計,wikipedia,<2020/02/21アクセス>
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8B%A2%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88